
|
楊大眼傳 楊大眼,武都氐難當之孫也.少有膽氣,跳走如飛.然側出,不為其宗親顧待,頗有飢寒之切.太和中,起家奉朝請.時高祖自代將南伐,令尚書李沖典選征官,大眼往求焉.沖弗許,大眼曰:「尚書不見知,聽下官出一技.」便出長繩三丈許繫髻而走,繩直如矢,馬馳不及,見者莫不驚歎.沖曰:「自千載以來,未有逸材若此者也.」遂用為軍主.大眼顧謂同僚曰:「吾之今日,所謂蛟龍得水之秋,自此一舉終不復與諸君齊列矣.」未幾,遷為統軍.從高祖征宛、葉、穰、鄧、九江、鍾離之間,所經戰陳,莫不勇冠六軍.世宗初,裴叔業以壽春内附,大眼與奚康生等率衆先入,以功封安成縣開國子,食邑三百戸.除直閤將軍,尋加輔國將軍、游擊將軍. 楊大眼は武都の氐族、楊難當の孫である。若くして胆気があり、足の速さは飛ぶがごとくであった。しかし、嫡子でなかったので、一族から顧みられることがなく、飢えや寒さが切実な問題であった。太和年間に、朝廷からの要請を奉じて一家をたてた。そのとき拓跋宏は代から南征し、尚書の李沖に典選征官させた。大眼は出向いていってこれを求めた。李沖は許さず、大眼は言った。「尚書は私が一芸に秀でていることを知らないのです」そうして長縄三丈を髪に結わえて走った。縄は真っ直ぐ矢のようになって、馬でも追いつけない。それを見て、みな驚嘆した。李沖は言った。「千年来、このような逸材がいたためしはない」そして用いられて軍主となった。大眼は同僚に言った。「私の今日は、いわゆる蛟龍が水を得た時といえる。これからはおまいらと同レベルになることないだろうな」まもなく、統軍となった。拓跋宏に従って宛、葉、穰、鄧、九江、鍾離などを転戦した。戦役において勇戦して並ぶ者がなかった。拓跋恪の御世のはじめ、裴叔業が壽春をもって帰服し、大眼は奚康生らとともに兵を率いて先駆けて壽春に入った。その功績で安成縣開國子に封じられ、食邑三百戸を与えられた。直閤將軍を除せられ、しばらくして輔國將軍、遊撃將軍を加えられた。 出為征虜將軍、東荊州刺史.時蠻酋樊秀安等反,詔大眼為別將,隸都督李崇,討平之.大眼妻潘氏,善騎射,自詣軍省大眼.至於攻陳遊獵之際,大眼令妻潘戎裝,或齊鑣戰場,或並驅林壑.及至還營,同坐幕下,對諸僚佐,言笑自得,時指之謂人曰:「此潘將軍也.」 さらに征虜將軍、 東荊州刺史となった。時に蠻の酋長の樊秀安らが叛き、大眼は詔を受けて別將となり、都督の李崇にしたがって乱を平定した。大眼の妻潘氏は騎射が得意で、軍まで大眼に会いにきた。出陣や狩猟の際には、大眼は潘氏に武装させて、ともに戦場を駆け、また馬を並べて自然のなかを走った。軍営に戻っては、ともに幕下に座り、他の武人と談笑した。大眼はこれを人に「潘將軍だ」と言った。 蕭衍遣其前江州刺史王茂先率衆數萬次于樊雍,招誘蠻夏,規立宛州,又令其所署宛州刺史雷豹狼、軍主曹仲宗等領衆二萬偸據河南城.世宗以大眼為武衞將軍、假平南將軍、持節,都督統軍曹敬、邴虬、樊魯等諸軍討茂先等,大破之,斬衍輔國將軍王花、龍驤將軍申天化,俘馘七千有餘.衍又遣其舅張惠紹總率衆軍,[三]竊據宿豫.又假大眼平東將軍為別將,與都督邢巒討破之.遂乘勝長驅,與中山王英同圍鍾離.大眼軍城東,守淮橋東西二道.屬水汎長,大眼所綰統軍劉神符、公孫祉兩軍夜中爭橋奔退,大眼不能禁,相尋而走,坐徙為營州兵. [三] 衍又遣其舅張惠紹總率衆軍 按卷九八蕭衍傳説「惠紹,衍舅子也」,不知是此脱或彼衍.然梁書卷一一張弘策傳,弘策乃蕭衍從舅,范陽方城人.同書卷一八張惠紹傳,義陽人,不言和蕭衍有親,且不載其父名位.魏書以惠紹為蕭衍舅或舅子,實誤. 蕭衍は前江州刺史の王茂先に数万の兵を率いさせて樊、雍に駐屯させ、招誘蠻夏、宛州を設置した。また、宛州刺史とした雷豹狼や軍主の曹仲宗らに兵二万を率いてひそかに河南城に拠らせた。拓跋恪は大眼を武衞將軍、仮に平南將軍、持節とした。大眼は都督統軍の曹敬、邴虬、樊魯らとともに王茂先らを攻めて大勝し、蕭衍の輔國將軍の王花、龍驤將軍の申天化を斬り、首級七千を挙げた。蕭衍は再び張惠紹に軍を率いさせ、ひそかに宿豫に拠らせた。大眼は仮に平東將軍、別將となり、都督の邢巒とともに敵を討ち破った。勢いに乗ってそのまま進軍し、中山王英とともに鍾離を包囲した。大眼の軍は城東で淮水の橋の道を守っていた。しかし、川は広く長く、大眼配下の統軍の劉神符と公孫祉が橋を争って奔退した。大眼は罰することができず、相談して逃げた。連座して営州兵となった。 永平中,世宗追其前勳,起為試守中山内史.時高肇征蜀,世宗慮蕭衍侵軼徐揚,乃徴大眼為太尉長史、持節、假平南將軍、東征別將,隸都督元遙,遏禦淮肥.大眼至京師,時人思其雄勇,喜其更用,臺省閭巷,觀者如市.大眼次譙南,世宗崩.時蕭衍遣將康絢於浮山遏淮,規浸壽春,詔加大眼光祿大夫,率諸軍鎮荊山,復其封邑.後與蕭寶夤倶征淮堰,不能克.遂於堰上流鑿渠決水而還,加平東將軍. 永平年間に拓跋恪は以前の功績によって中山内史に任命した。その時、高肇が蜀を攻め、拓跋恪は蕭衍が徐州や揚州に侵攻するかもしれないと考えて、大眼を召して太尉長史、持節として、仮に平南將軍、東征別將とした。大眼は都督の元遙に従って淮水肥水の間を防衛した。京師に到って当時の人はその雄姿を見て、彼が用いられたことを喜び、役人も民間人も、見物人は市場のようになった。大眼が譙の南に駐屯した時に、拓跋恪が死んだ。その時、蕭衍は康絢に浮山で淮水を防がせていたが、壽春に侵攻させた。大眼は詔をうけて光祿大夫となり、諸軍を率いて荊山を守り、また封邑も戻された。のち蕭寶夤とともに淮水の堰を攻めたが、勝つことができなかった。最後には堰を決壊させて帰還し、平東將軍となった。 大眼善騎乘,裝束雄竦,擐甲折旋,見稱當世.撫巡士卒,呼為兒子,及見傷痍,為之流泣.自為將帥,恒身先兵士,衝突堅陳,出入不疑,當其鋒者,莫不摧拉.南賊前後所遣督將,軍未渡江,預皆畏懾.傳言淮泗、荊沔之間有童兒啼者,恐之云「楊大眼至」,無不即止.王肅弟子秉之初歸國也,謂大眼曰:「在南聞君之名,以為眼如車輪.及見,乃不異人.」大眼曰:「旗鼓相望,瞋眸奮發,足使君目不能視,何必大如車輪.」當世推其驍果,皆以為關張弗之過也.然征淮堰之役,喜怒無常,捶撻過度,軍士頗撼焉.識者以為性移所致. 大眼は巧みに騎乗し、衣装は勇ましく、鎧を着れば旋回し、当世と称せられた。兵卒を慰撫し、我が子のように扱い、傷ついた者を見ればその者のために涙を流した。戦では自ら先頭に立って指揮し、堅陣に突撃し、その動作に躊躇なく、敵の先鋒に当たり、圧倒しないことはなかった。南朝ではいつも、派遣した將軍が渡江せず、みな恐れおののいた。淮水や泗水、荊州や沔陽のあたりでは、子供が泣いている時、「楊大眼キタ━(゚∀゚)━!」と言うと、ぴたりと泣き止むのだった。王肅の弟子の秉が初めて帰国して、大眼に言った。「南で君の名を聞いたよ。眼が車輪みたいになってるって。実際見てみると、人と変わらないね」大眼が答えて言った。「旗鼓を望んで、眼を怒らせて気を奮い立たせれば、君は目を見ることができなくなるだろう。どうして車輪である必要があろうか」今の世の中で勇猛な者を推すならば、みな楊大眼と言い、また関羽や張飛でも及ばないと言った。しかし、淮水の堰の戦役では、感情の起伏が激しく、理由もなく鞭打つことがたびたびあって、兵卒はかなり動揺していた。識者は大眼の人格が変わってしまったのだと言った。 又以本將軍出為荊州刺史.常縛蒿為人,衣以青布而射之.召諸蠻渠指示之曰:「卿等若作賊,吾政如此相殺也.」又北淯郡嘗有虎害,大眼搏而獲之,斬其頭懸於穰市.自是荊蠻相謂曰:「楊公惡人,常作我蠻形以射之.又深山之虎尚所不免.」遂不敢復為寇盜.在州二年而卒. また將軍として荊州刺史となった。いつも蒿を縛って人形にして、青い服を着せてこれを射ていた。蠻のかしら達を招いて、人形を示して言った。「おまいら、もし逆らったら、あんなふうになるよ」また北淯郡はかつて虎の害に悩まされていたが、大眼がつかまえて、頭部を切り落とし、穰の市場にさらした。荊蠻の者たちが言い合うには、「楊公は悪人だ。いつも我ら蠻の人形を射ているという。深い山に棲む虎でさえも彼の手を免れないのだ」それで、わざわざ賊となろうとする者はいなかった。荊州に赴任して二年で亡くなった。 大眼雖不學,恒遣人讀書,坐而聽之,悉皆記識.令作露布,皆口授之,而竟不多識字也.有三子,長甑生,次領軍,次征南,皆潘氏所生,氣幹咸有父風. 大眼は学問はなかったが、いつも人に書物を読ませて、座ってそれを聞いていた。聞いたことは全部憶えていた。布告を出して、皆に口授したほどだったが、結局文字はほとんど読めなかった。男子は三人、長男は甑生、次男は領軍、三男は征南、みな潘氏が産んだ。気性と才幹はみな父に似ていた。 初,大眼徙營州,潘在洛陽,頗有失行.及為中山,大眼側生女夫趙延寶言之於大眼,大眼怒,幽潘而殺之.後娶繼室元氏.大眼之死也,甑生等問印綬所在.時元始懷孕,自指其腹謂甑生等曰:「開國當我兒襲之,汝等婢子,勿有所望!」甑生深以為恨.及大眼喪將還京,出城東七里,營車而宿.夜二更,甑生等開大眼棺,延寶怪而問之,征南射殺之.元怖,走入水,征南又彎弓射之.甑生曰:「天下豈有害母之人.」乃止.遂取大眼屍,令人馬上抱之,左右扶挾以叛.荊人畏甑生等驍勇,不敢苦追.奔於襄陽,遂歸蕭衍. はじめ、大眼が営州に徙された時、潘氏は洛陽にいて、しばしば不貞を働いた。中山内史になった時、大眼の側室が産んだ娘の夫の趙延寶がこのことを告げ口した。大眼は怒って潘氏を閉じこめ、殺してしまった。後妻として元氏を娶った。大眼が亡くなると、甑生らは印綬のありかを問うた。その時、元氏は妊娠していて、自らの腹を指して甑生らに言った。「開国私の子が後継ぎなのよ!あなたたち妾の子供のくせに、贅沢なこと言うんじゃないわよ!」甑生は深くこれを怨んだ。大眼の遺体が京師にもどってくると、城から東七里に出て、車で休んだ。夜十時ごろ、甑生らは大眼の棺を開けた。趙延寶が怪しんで問いただした。征南は趙延寶を射殺した。元氏は怖れて、走って川を渡ろうとした。征南は弓をひいて射殺そうとした。甑生が制止して言った。「どうして母を殺してしまう人がいようか」そして、大眼の遺体を取り出し、馬にのせ、左右から支えて去った。荊州の人々は甑生らの勇猛さを恐れて、追わなかった。彼らは襄陽に逃れ、蕭衍に帰した。 |