段部の始祖である日陸眷(就陸眷){人名は魏書を基準として括弧内に晋書}は奴隷狩りによって烏桓の奴隷となっていた。饑饉のおりに食料調達を命ぜられて遼西に赴き、そこで独立した。日陸眷が死ぬと、その勢力は弟の乞珍に引き継がれ、さらにその子の務目塵(務勿塵)が引き継いだ。勢力は三万家、弓騎兵が四五万騎ほどであった。務目塵の子の一人に匹磾がいた。

段部は八王の乱の際に王浚を支援し、三〇七年、晋の懐帝が即位すると務目塵は大單于、遼西公、親晋王となり、匹磾は左賢王となった。

三〇九年に石勒が常山に侵入したため、王浚は部将の祁弘に鮮卑等を引き連れて石勒を攻撃させた。飛龍山において大勝し、石勒側では万を超える死者を出した。この時に匹磾は撫軍将軍となったが、撫軍大将軍と自称した。

務目塵が死んだ。務目塵の弟の渉復辰は、務目塵の子の就六眷(疾陸眷)に後を継がせた。日陸眷(就陸眷)と就六眷(疾陸眷)は同音で、部族の長の称号である。

洛陽が陥落し、石勒は王弥の勢力を吸収して拠点を襄國に移した。

王浚は部将の王昌に命じて鮮卑を率いて襄國の石勒を攻めた。就六眷、匹磾、文鴦、末波(末杯)らが従軍した。鮮卑のなかでは末波の兵が最も精強だった。就六眷らは渚陽に駐屯した。石勒は部将をたびたび出撃させて挑発してきて、就六眷はそのたびに撃退した。また、攻城兵器を準備しはじめた。石勒は敵を塁壁に誘い込んで伏兵を設けて襲撃し、末波を捕らえた。石勒は末波を丁重に扱った。就六眷は渚陽に戻って和平を提案しようとしたが、文鴦が反対した。「我々は王浚に命じられて石勒と戦っているのです。このままでは、末波一人のために王浚を失望させることになってしまいます。いけません」しかし、就六眷は聴き入れなかった。

石勒側では諸将が末波を斬るべしとの意見があったが、石勒が「鮮卑は強い。今、一人を殺して一国の怨みを買うのはよくない」と言い、また、高僧の仏図澄も末波を返すべきであると勧めたので、石勒は人質交換に応じて末波を返還した。

鮮卑が撤退したため、王昌もやむなく撤退した。


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