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惠帝紀 惠帝、諱は衷、字は正度、武帝の第二子である。泰始三年に皇太子に立てられた。時に九歳。 太煕元年(290)四月己酉、武帝が亡くなった。惠帝は皇帝に即位し、大赦し、永煕と改元した。楊氏を皇太后とし、賈氏を皇后とした。 夏五月辛未、武帝を峻陽陵に葬った。丙子、天下の民の位一等を増し、同じく葬儀に携わった者は二等増し、税を一年間免除し、二千石以上は皆、關中侯に封じた。太尉の楊駿を太傅、輔政にした。 秋八月壬午、廣陵王遹を皇太子とした。中書監の何劭を太子太師に、吏部尚書の王戎を太子太傅に、衞將軍の楊濟を太子太保にした。南中郎將の石崇、射聲校尉の胡奕、長水校尉の趙俊、揚烈將軍の趙歡に兵を率いさせて四方に駐屯させた。 冬十月辛酉、司空の石鑒を太尉に、前鎭西將軍の隴西王泰を司空にした。 |
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永平元年(291)春正月乙酉朔、朝政に臨んで樂を設けなかった。詔して言った。「朕は夙に不造(不幸)に遭い、淹恤疚に在り。祖宗の遺靈、宰輔の忠賢を賴り、眇身(小さいからだ)を以て羣后(諸侯)の上に託するを得る。大道に昧く、訓に明らかならず、戰戰兢兢として、夕に惕若として厲(なや)む。乃者(以前)哀迷の際、三事の股肱、惟だ社稷をこれ重んじ、翼室の典を率遵し、猶お長く先皇の制を奉ぜんと欲す、是以て永熙の號有り。しかし、時が過ぎて新年になったのだから、改元するのは昔からの礼法である。永煕二年を改めて永平元年とする」また、詔して子弟と群官は陵に謁することができないとした。丙午、皇太子が成人し、丁未、太廟に見えた。 二月甲寅、王公以下に各々等級を付けて帛を賜った。癸酉、鎭南將軍の楚王瑋、鎭東將軍の淮南王允が来朝した。戊寅、また祕書監官を設置した。 三月辛卯、太傅の楊駿、駿の弟の衞將軍の楊珧、太子太保の楊濟、中護軍の張劭、散騎常侍の段廣、楊邈、左將軍の劉預、河南尹の李斌、中書令の蔣俊、東夷校尉の文淑、尚書の武茂を誅殺し、三族まで族殺した。壬辰、大赦して元康と改元した。賈后は偽って詔して皇太后を廃して庶民とし、金墉城に徙し、天地宗廟に告げた。太后の母、龐氏を誅殺した。壬寅、大司馬の汝南王亮を太宰にし、太保の衞瓘を輔政にした。秦王柬を大將軍に、東平王楙を撫軍大將軍に、鎭南將軍の楚王瑋を衞將軍・北軍中候とし、下邳王晃を尚書令に、東安公繇を尚書左僕射にして東安王に封じた。昇進した者は千八十一人であった。庚戌、東安王繇と東平王楙を免職し、繇を帶方郡に徙した。 夏四月癸亥、征東將軍の梁王肜を征西大將軍、都督關西諸軍事とし、太子少傅の阮坦を平東將軍、監靑徐二州諸軍事とした。己巳、太子太傅の王戎を尚書右僕射にした。 五月甲戌?、毗陵王軌が亡くなった。壬午、天下の戸調緜絹を除き、孝悌、高年、鰥寡、よく田を耕す者にたいして一人三匹の帛を賜った。 六月、賈后は偽って詔して楚王瑋に太宰の汝南王亮と太保の菑陽公衞瓘を殺させようとした。乙丑、楚王瑋は汝南王亮と衞瓘を勝手に殺害した。洛陽で曲赦した。廣陵王の師の劉寔を太子太保に、司空の隴西王泰を録尚書事にした。 秋七月、揚州と荊州の十郡を分けて江州とした。 八月庚申、趙王倫を征東將軍、都督徐兗二州諸軍事とし、河間王顒を北中郎將にして鄴を鎮め、太子太師の何劭を督豫州諸軍事として許昌を鎮めさせた。長沙王乂を常山王に徙した。己巳、西陽公羕の爵位を王にした。辛未、隴西王の世子越を東海王に立てた。 九月甲午、大將軍の秦王柬が亡くなった。辛丑、征西大將軍の梁王肜を衞將軍、録尚書事に、趙王倫を征西大將軍、都督雍梁二州諸軍事とした。 冬十二月辛酉、京師に地震があった。 この歳、東夷十七国、南夷二十四部が校尉にやってきて、服従した。 |
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元康二年(292)春二月己酉、賈后は金墉城で皇太后を殺した。 秋八月壬子、大赦した。 九月乙酉、中山王耽が亡くなった。 冬十一月、大疫が流行した。 この歳、沛國に雹が降り、麦に打撃を与えた。 |
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元康三年(293)夏四月、滎陽に雹が降った。 六月、弘農郡で雹が降って、深さ三尺になった。 冬十月、太原王泓が亡くなった。 |
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元康四年(294)春正月丁酉朔、侍中・太尉の昌安公鑒が亡くなった。 夏五月、蜀郡で山が動き、淮南の壽春で洪水が起こり、山が崩れ地が陷ち、城府と民間の家屋が壊れた。匈奴の郝散が叛乱を起こし、上黨を攻めて長吏を殺した。 六月、壽春で大きな地震があり、二十数家に死者が出た。上庸郡で山が崩れ、二十数人が死んだ。 秋八月、郝散が降伏し、馮翊都尉に殺された。上谷の居庸・上庸で地が裂け、水が涌き出て、死者が出た。大きな飢饉が起こった。 九月丙辰?、諸州の被災者が赦された。甲午?、流星が東北に向かった。 この歳、京師と八の郡国に地震があった。 |
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元康五年(295)夏四月、彗星が西方に現れ、奎星から軒轅にわたった。 六月、金城で地震があた。東海で雹が降り、深さ五寸。 秋七月、下邳で暴風があり、家屋が壊れた。 九月、雁門、新興、太原、上黨で強風が吹き、穀物に打撃を与えた。 冬十月、武庫が出火して、代々貯えた宝が焼失した。 十二月丙戌、新しい武庫を作り、武器を大量に調達した。丹楊で雹が降った。石が京師の宜年里に生まれるということがあった。 この歳、荊州、揚州、兗州、豫州、靑州、徐州等の六州で洪水があり、詔して御史を巡行させて物資を救援し貸与した。 |
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元康六年(296)正月、大赦した。司空の下邳王晃が亡くなった。中書監の張華を司空とし、太尉の隴西王泰を尚書令、衞將軍の梁王肜を太子太保とした。丁丑、地震があった。 三月、東海に霜が降りて、桑や麦に打撃を与えた。彭城の呂縣で東西百余歩にわたって流血があった。 夏四月、強風が吹いた。 五月、荊州、揚州の二州で洪水があった。匈奴の郝散の弟、度元が馮翊・北地に住む馬蘭羌・盧水胡を率いて叛乱を起こし、北地を攻め、太守の張損が死んだ。馮翊太守の歐陽建は度元と戦って敗れた。征西大將軍の趙王倫を車騎將軍とし、太子太保の梁王肜を征西大將軍、都督雍梁二州諸軍事として關中を鎮めさせた。 秋八月、雍州刺史の解系がまた度元に敗れた。秦州や雍州の氐や羌が悉く叛乱し、氐の齊萬年を皇帝とし、涇陽を包囲した。 冬十月乙未、雍州、涼州で曲赦した。 十一月丙子、安西將軍の夏侯駿と建威將軍の周處などが齊萬年を攻撃し、梁王肜が好畤に駐屯した。關中で飢饉があり、疫病が流行った。 |
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元康七年(297)春正月癸丑、周處が齊萬年と六陌で戦い、敗れて死んだ。 夏五月、魯國で雹が降った。 秋七月、雍州、梁州で疫病があった。長く日照りが続き、霜が降り、秋の穀物に打撃を与えた。關中で飢饉があり、米一斛が一万錢に高騰した。詔して肉親を売ることを禁じなかった。丁丑、司徒の京陵公王渾が亡くなった。 九月、尚書右僕射の王戎を司徒とし、太子太師の何劭を尚書左僕射とした。 |
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元康八年(298)春正月丙辰、地震があった。詔して穀倉を開いて雍州の飢えた人に与えた。 三月壬戌、大赦した。 夏五月、結婚・子求めの神を祀った石が二つに割れた。 秋九月、荊州、豫州、揚州、徐州、冀州の五州で洪水があった。雍州では豊作だった。 |
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元康九年(299)春正月、左積弩將軍孟觀が氐を征伐し、中亭で戦って大勝し、齊萬年を捕らえた。征西大將軍の梁王肜を録尚書事にした。北中郎將の河間王顒を鎭西將軍にして關中を鎮めさせ、成都王穎を鎭北大將軍として鄴を鎮めさせた。 夏四月、鄴人の張承基らがでたらめな命令をして民衆数千を集めた。郡縣では彼らを逮捕して、皆誅殺した。 六月戊戌、太尉の高密王泰が亡くなった。 秋八月、尚書の裴頠を尚書僕射とした。 冬十一月甲子朔、日蝕。京師で強風が吹いた。家が壊れて木が折れた。 十二月壬戌、皇太子遹を廃して庶民とし、三人の子とともに金墉城に幽閉した。皇太子の母の謝氏を殺した。 |
永康元年(300)春正月癸亥朔、大赦して改元した。己卯、日蝕があった。丙子、皇孫 が亡くなった。二月丁酉、強風で沙が飛び、木が抜けた。 三月、尉氏で血の雨が降り、妖しげな星が南方に現れた。癸未、賈后が偽って詔して、庶民にした太子遹を許昌で殺した。 夏四月辛卯、日蝕があった。癸巳、梁王肜と趙王倫が偽って詔して賈后を廃して庶民とし、司空の張華、尚書僕射の裴頠らが殺され、侍中の賈謐とその与党数十人がみな誅殺された。甲午、趙王倫が偽って詔して大赦し、自らを相國として全ての軍権を掌握し、宣帝や文帝が魏を輔佐した故事にならって、亡くなった皇太子の位をもとに戻した。丁酉、梁王肜を太宰とし、左光祿大夫の何劭を司徒とし、右光祿大夫の劉寔を司空とし、淮南王允を驃騎將軍とした。己亥、趙王倫は偽って詔して、庶民にした賈后を金墉城で殺した。 五月己巳、皇孫の臧を皇太孫とし、尚を襄陽王とした。 六月壬寅、愍懷太子を顯平陵に葬った。撫軍將軍の清河王遐が亡くなった。癸卯、崇陽陵の標識が壊れた。 秋八月、淮南王允が挙兵して趙王倫を攻撃したが敗れ、淮南王允とその子、秦王郁と漢王迪が殺された。洛陽で曲赦した。平東將軍の彭城王植が亡くなった。呉王晏を賓徒縣王に改封した。齊王冏を平東將軍とし、許昌を鎮めさせた。光祿大夫の陳準を太尉、録尚書事とした。 九月、司徒の官名を丞相と改め、梁王肜がその地位に就いた。 冬十月、黄沙がすごかった。 十一月戊午、風が強くて砂が飛び、六日間止まなかった。甲子、羊氏を皇后とし、大赦し、大いに慶事を祝った。 十二月、彗星が東方に現れた。益州刺史趙廞と略陽の流民の李庠は成都内史の耿滕、犍爲太守の李苾、汶山太守の楊邠、西夷校尉の陳總を殺し、成都に拠って叛乱した。 |
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永寧元年(301)春正月乙丑、趙王倫が帝位を奪った。丙寅、惠帝を金墉城に遷して、太上皇と名乗らせ、金墉城を永昌宮と改名した。皇太孫の臧を廃して濮陽王とした。五つの星が天空に縦横無尽。癸酉、趙王倫は濮陽王臧を殺した。略陽の流民の李特は趙廞を殺して、京師に首を送った。 三月、鎭東將軍の齊王冏が趙王倫を討つために州郡に檄を飛ばし、陽翟に駐屯した。それに応じて征北大將軍の成都王穎、征西大將軍の河間王顒、常山王乂、冀州刺史の李毅、兗州刺史の王彦、南中郎將の新野公歆等はみな挙兵し、兵数は数十万となった。趙王倫は部将の閭和を伊闕に、張泓と孫輔を堮坂に配して齊王冏を防がせ、孫會、士猗、許超等を黄橋に配して成都王穎を防がせた。成都王穎の部将の趙驤、石超と湨水で戦って、孫會等は大敗し、軍を棄てて逃げ出した。 閏三月丙戌朔、日蝕があった。 夏四月、木星が昼に現れた。齊王冏の部将の何勖と盧播が張泓を陽翟で撃破し、孫輔等を斬った。辛酉、左衞將軍の王輿と尚書の淮陵王漼が兵を率いて宮殿に入り、趙王倫の一味である孫秀、孫會、許超、士猗、駱休等を捕らえ、みな斬った。趙王倫は屋敷に帰って、即日、惠帝が帝位に戻った。群臣は頓首して謝罪した。惠帝は言った。「お前たちの過ちではない」 癸亥、詔して言った。「朕が不徳なので、帝位を簒奪され、遠くは大業をなして世を静め安んずることができず、近くは権威を明らかにして悪を止めることができず、逆臣孫秀に凶虐をなさしめ、王室を窺い、ついに趙王倫を奉じて帝位を奪った。鎭東大將軍齊王冏、征北大將軍成都王穎、征西大將軍河間王顒は、徳があって親しみ、忠義をあらわし、大策を建てて国難を救った。尚書漼は共に大謀を立て、左衞將軍王輿と群公卿士も協力し、兵を率いて孫秀とその二人の子を斬った。さきに、趙王倫は孫秀によって誤り、その子等とともに金墉城に朕を迎えに来て、朕は宮殿に還った。どうして予一人だけで祝うことができようか。宗廟社稷には本当に頼りになる者がいる」そして大赦し、改元し、独身者に穀物と酒を賜って祝った。趙王倫、義陽王威、九門侯質やその与党が誅殺された。 五月、襄陽王尚が皇太孫となった。 六月戊辰、大赦し、吏の位を二等増した。賓徒王晏を呉王に改封した。庚午、東莱王蕤と左衞將軍の王輿が齊王冏を廃そうとして露見し、東莱王蕤は庶民にされ、王輿は三族に及ぶまで誅殺された。甲戌、齊王冏を大司馬、都督中外諸軍事とし、成都王穎を大將軍、録尚書事とし、河間王顒を太尉とした。丞相を廃止して司徒の官を設置した。己卯、梁王肜を太宰として司徒を取り仕切った。齊王冏の功臣葛旟を牟平公に、路秀を小黄公に、衞毅を平陰公に、劉眞を安郷公に、韓泰を封丘公に封じた。 秋七月甲午、呉王晏の子、固を漢王とし、常山王乂を長沙王に改封した。 八月、大赦した。戊辰、国境守備の罪人を赦した。益州刺史の羅尚が羌を討ち破った。己巳、南平王祥を宜都王に徙した。下邳王韡が亡くなった。東平王楙を平東將軍、都督徐州諸軍事とした。 九月、東安王繇の爵位を戻した。丁丑?、楚王瑋の子の範を襄陽王とした。 冬十月、流民の李特が蜀で叛乱した。 十二月、司空?何劭が亡くなった。齊王冏の子の冰を樂安王とし、英を濟陽王とし、超を淮南王とした。 この歳、十二の郡国で旱魃があり、六の郡国で蝗の被害にあった。 |
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太安元年(302)春正月庚子、安東將軍の譙王隨が亡くなった。 三月癸卯、司州、冀州、兗州、豫州の四州で赦した。皇太孫尚が亡くなった。 夏四月、彗星が昼に現れた。 五月乙酉、侍中、太宰、領司徒の梁王肜が亡くなった。右光祿大夫の劉寔を太傅とした。太尉の河間王顒は部将の衙博に蜀の李特を攻撃させたが敗れた。李特は梓潼、巴西を陥落させ、廣漢太守の張微を殺し、大將軍と自称した。癸卯、清河王遐の子、覃を皇太子とし、独り身の者に帛を賜い、大いに慶事を祝った。齊王冏を太師とし、東海王越を司空とした。 秋七月、兗州、豫州、徐州、冀州等の四州で洪水があった。 冬十月、地震があった。 十二月丁卯、河間王顒は齊王冏に逆心ありとして、成都王穎、新野王歆、范陽王虓と洛陽に会し、齊王冏を廃するよう求めた。長沙王乂は惠帝を奉じて南止車門に駐屯し、齊王冏を攻め殺し、その子等を金墉城に幽閉し、齊王冏の弟の北海王寔を廃した。大赦して改元した。長沙王乂を太尉、都督中外諸軍事とした。東莱王蕤の子の炤を齊王とした。 |
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太安二年(303)春正月甲子朔?、五歳の刑を赦した。李特が益州を攻め落とした。 二月、荊州刺史の宗岱が李特を攻撃して斬った。 三月、京師に李特の首が届いた。 夏四月、李特の子の李雄が益州を拠点にした。 五月、義陽蠻の張昌が挙兵叛乱し、山都人の丘沈を主とし、劉氏と改姓し、漢と称し、神鳳と建元して、郡縣を攻めた。南陽太守の劉彬、平南將軍の羊伊、鎭南大將軍の新野王歆等は皆殺された。 六月、荊州刺史の劉弘等に張昌を方城で討たせたが、王師は敗れた。 秋七月、中書令の卞粹、侍中の馮蓀、河南尹の李含等が長沙王乂を裏切ろうとしたが、長沙王乂に疑われて殺された。 張昌は江南諸郡を陥落させ、武陵太守の賈隆、零陵太守の孔紘、豫章太守の閻濟、武昌太守の劉根等は皆殺された。張昌の別軍の石冰が揚州を攻め、刺史の陳徽と戦って勝利し、諸郡をことごとく占領した。臨淮人の封雲が挙兵して石冰に応じ、阜陵から徐州に侵攻した。 八月、河間王顒、成都王穎が挙兵して長沙王乂を攻めた。惠帝は長沙王乂を大都督とし、軍を率いて防がせた。 庚申、劉弘は張昌と清水で戦って張昌を斬った。 河間王顒は部将の張方を、成都王穎は陸機、牽秀、石超を遣わして京師に迫った。乙丑、惠帝は十三里橋に行き、將軍の皇甫商に張方を宜陽で防がせた。己巳、惠帝は軍を宣武場にもどした。庚午、石樓にいた。天が裂け、雲がないのに雷が鳴った。 九月丁丑、惠帝は河橋にいた。壬午、皇甫商は張方に敗れた。甲申、惠帝は軍を芒山にうつした。丁亥、惠帝は偃師に行った。辛卯、豆田にいた。癸巳、尚書右僕射の興晋公羊玄之が亡くなり、惠帝は城東にもどった。丙申、緱氏に進軍し、牽秀を攻撃して敗走させた。大赦した。張方は京城に入り、清明門、開陽門を焼き、死者は万を超えた。石超は緱氏で惠帝に迫った。 冬十月壬寅、惠帝は宮殿に戻った。石超は緱氏を焼き、皇帝の使用する衣服や車馬がなくなった。丁未、牽秀、范陽王虓を東陽門の外で敗った。戊申、陸機を建春門で敗り、石超を敗走させ、賈崇等十六人を斬り、首を銅駝街に晒した。張方は退いて十三里橋に駐屯した。 十一月辛巳、星が昼に落ちて、雷のような音がした。王師が張方の壘を攻めて、不利だった。張方は千金堨を決壊させ、水車がみな涸れてしまった。王公奴婢に自分で臼搗かせて兵卒の糧食とし、一品以下で出征していない男子で十三以上の者は役に従わせた。また、奴隷を兵にして、四部司馬と名付けた。みな困窮して、米は高騰した。皇帝の威令のとどく所は京城のみであった。 十二月壬寅夜、赤い気が天にあらわれ、殷々と音が響いた。丙辰、地震があった。癸亥、東海王越が長沙王乂を捕らえ、金墉城に幽閉し、しばらくして張方に殺された。丙寅、揚州の秀才の周玘、前南平太守の王矩、前呉興太守の顧祕、ついでに葛洪等が義兵を起こして石冰を攻撃した。石冰は臨淮から壽陽に退いた。征東將軍の劉準は廣陵度支の陳敏に石冰を攻撃させた。 閏十二月、李雄は郫城から益州刺史の羅尚を攻め、羅尚は逃げ出し、李雄は成都の地をことごとく収めた。鮮卑の段勿塵を遼西公とした。 |
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永興元年(304)春正月丙午、尚書令の樂廣が亡くなった。成都王穎は鄴から惠帝を諷し、大赦させ、永安と改元させた。惠帝は河間王顒に迫られたため、雍州刺史の劉沈、秦州刺史の皇甫重にひそかに詔して討たせようとした。劉沈が挙兵して長安を攻めたが、河間王顒に敗れた。張方は洛陽を掠奪し、長安に還った。軍中で飢えて人肉を食うようになった。成都王穎を丞相とした。成都王穎は従事中郞の成夔等に兵五万で十二の城門に駐屯させ、殿中で兵がいるのを忌む者は、皆殺し、三部兵で宿衛に代えた。甲子、大赦した。 二月乙酉、皇后羊氏を廃し、金墉城に幽閉し、皇太子覃を退位させて清河王とした。 三月、陳敏が石冰を攻めて斬り、揚州、徐州を平らげた。 河間王顒が成都王穎を皇太弟にするよう求めた。戊申、詔して言った。「朕は不徳で、帝王の大業を受け継いで十五年になる。世が混乱して宮殿は荒れ、宗廟は破壊された。成都王穎は温仁恵和で混乱をおさめた。よって、成都王穎を皇太弟とし、都督中外諸軍事に任じ、丞相の位はそのままにする」大赦して、鰥寡孤独に帛三匹を賜い、慶事を祝った。丙辰、太廟の宝物が盗まれた。太尉の河間王顒を太宰とし、太傅の劉寔を太尉とした。 六月、新たに三つの城門を作った。 秋七月丙申朔、右衞將軍の陳眕は詔を受けて役人を集めて殿中に入り、兵を引き連れて成都王穎を攻撃した。戊戌、大赦し、皇后羊氏と皇太子覃を復位させた。己亥、司徒の王戎、東海王越、高密王略、平昌公模、呉王晏、豫章王熾、襄陽王範、右僕射の荀藩等が惠帝を奉じて北征した。安陽に至って兵十余万、成都王穎は部将の石超に防がせた。己未、王師は蕩陰で敗れ、矢が惠帝まで及び、役人は四散し、嵇紹が死んだ。惠帝は頬に傷を負い、矢が三度当たり、六璽をなくした。惠帝は石超の軍に行った。ひどく飢えていて、石超が水を勧め、左右の者が秋桃を奉った。石超は弟の煕に惠帝を奉って鄴へ行かせ、成都王穎は群官を率いてこれを迎えた。惠帝は輿から降りて泣き、夕方に成都王穎の軍に行った。成都王穎の幕府では九錫の儀があり、陳留王が貂蝉、文衣、鶡尾を送り、明日、惠帝をつれて鄴に入り、それに従ったのは、豫章王熾、司徒の王戎、僕射の荀藩だけだった。庚申、大赦して建武と改元した。 八月戊辰、成都王穎が東安王繇を殺した。張方は再び洛陽に入り、皇后羊氏と皇太子覃を廃した。匈奴の左賢王の劉淵が離石で叛き、大單于と称した。安北將軍の王浚が烏丸騎兵で鄴の成都王穎を攻めた。成都王穎は惠帝と洛陽に逃走し、皇帝の使用する衣服や車馬は分散し、兵卒は皆持ち物を捨てて逃げ、侍中黄門が持っていた三千の銭を兵卒に貸し与えた。所在買飯以供,宮人止食于道中客舍.宮人がわずかに糠飯と乾燥した蒜塩漬け豉などを持っていて惠帝に勧め、惠帝はこれを食べ、御中黄門が布を敷いた。獲嘉に宿り、精米していない飯を買い、素焼きの盆に盛り、惠帝は二杯食べた。老父が蒸した鶏を献上し、惠帝がそれを受け取った。温に到着し、皇帝の陵墓に謁した時に、惠帝はくつを失くし、従者のくつを履いた。惠帝は拝礼して涙を流し、左右の者は皆すすり泣いた。黄河を渡って、張方が三千騎を率いて、陽燧青蓋車で惠帝を迎えた。張方は拝謁して、惠帝がそれを止めた。辛巳、大赦して、従者に賞を与えた。 冬十一月乙未、張方は惠帝に廟に謁してもらい、おどして長安に行かせようとした。張方は惠帝が乗る車を殿中に入れ、惠帝は後園の竹林に逃げた。張方は惠帝に車に乗るように逼り、臣下の中で黄門鼓吹十二人が歩いて従い、ただ中書監の盧志だけが側に侍った。張方は惠帝を塁に赴かせ、惠帝は張方に宮人や宝物を車で運ぶよう言ったが、軍人は後宮の女を略奪し、蔵から財宝をぶん捕った。魏晋以来の蓄えは、地を掃いたようになにも残らなかった。出発して新安に宿り、寒さがひどく、惠帝は馬から落ちて足を怪我し、尚書の高光が面衣をすすめ、惠帝はこれを嘉とした。河間王顒は役人や軍隊三万を率いて、覇上に出迎えた。河間王顒は進み出て拝謁し、惠帝は車から降りてそれを止めた。征西府を宮殿とした。僕射の荀藩、司隷の劉暾、太常の鄭球、河南尹の周馥とその部下たちは洛陽に残り、留臺とし、行事をうけもって、東西臺と号した。辛丑、李雄は成都王と称し、劉淵は漢王と称し、また皇后羊氏を復位させた。。丙午、留臺で大赦し、また永安と改元した。 十二月丁亥、詔して言った。「天は晋に禍をくだし、後継者がいない。成都王穎は後嗣の立場にありながら実績はなく、天下は失望し、重責を負うにふさわしくない。豫章王熾は先帝が愛し、名声は日々新たにして、天下の注目するところであり、今これを皇太弟とし、我が晋を盛んにする。司空の司馬越は太傅として、太宰の司馬顒とともに我をたすけよ。司徒の王戎は朝政に参加し、光禄大夫の王衍は尚書左僕射とする。安南將軍の司馬虓、安北將軍の浚、平北將軍の司馬騰はそれぞれ本鎭を守れ。高密王簡を鎭南將軍とし、司隸校尉をおさめ、洛陽に鎮めよ。東中郎將の司馬模を寧北將軍、都督冀州とし、鄴を鎮めよ。鎭南大將軍の劉弘は荊州をおさめ、もって南土を鎮めよ。周馥、繆胤はそれぞれもとの部署にかえり、百官はみな復職せよ。齊王冏はすすんで座を退き、長沙王乂が軽い過ちでもって重い罰をあたえたので、その子の司馬超を樂平縣王に封じ、その後継とする。最近戦が多く、人力を労費し、天子に奉ずる物は三分の二に減り、租調は三分の一に減った。苛政を取り除き、民をいつくしめ。清通の後、洛陽に還るべし」大赦して改元した。河間王顒を都督中外諸軍事とした。 |
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永興二年(305)春正月甲午朔、惠帝は長安にいた。 夏四月、樂平王超を齊王とした。丙子、張方は皇后羊氏を廃した。 六月甲子、侍中で司徒の安豐侯王戎が死んだ。隴西太守の韓稚が秦州刺史の張輔を攻めて殺した。李雄は帝位について、国号を蜀とした。 秋七月甲午、尚書の役所から出火して、崇禮闥が焼けた。東海王越は徐のほうに兵を出して、惠帝を迎えようとした。成都王穎の部将、公師藩らが兵を集めて郡県を攻め、陽平太守の李志、汲郡太守の張延らを殺し、転じて鄴を攻め、平昌公模は将軍の趙驤を派遣してこれを撃破させた。 八月辛丑?、大赦した。驃騎將軍の范陽王虓が冀州刺史の李義を敗走させた。揚州刺史の曹武は丹陽太守の朱建を殺した。李雄は将軍の李驤に漢安を攻めさせた。車騎大將軍の劉弘は平南將軍の彭城王釋を宛で敗走させた。 九月庚寅朔、公師藩は平原太守の王景と清河太守の馮熊を殺した。庚子、豫州刺史の劉喬は范陽王虓を許昌に攻めて打ち破った。壬子、成都王穎を鎭軍大將軍、都督河北諸軍事として、鄴を鎮めさせた。河間王顒は将軍の呂朗を洛陽に駐屯させた。 冬十月丙子、詔して言った。「得豫州刺史の劉喬の檄を得て、潁川太守の劉輿が驃騎將軍の范陽王虓を脅迫したと称して,距逆詔令,造構凶逆,擅劫郡縣,合聚兵衆,擅用苟晞為兗州,斷截王命。鎮南大將軍の荊州刺史の劉弘、平南將軍の彭城王釋らは、それぞれ率いている部隊をひきつれて、許昌に集まり、劉喬と力を合わせよ。今、右將軍の張方を大都督とし、精兵十万を統べさせ、建武將軍の呂朗、廣武將軍の騫貙、建威將車の刁默らを軍の先鋒とし、許昌に集まって,劉輿の兄弟を除け」丁丑、前車騎將軍の石超、北中郎將の王闡に劉輿らを討たせた。赤気が北方に現われ、天に満ちた。箒星が北斗にかかった。平昌公模は将軍の宋冑らを河橋に駐屯させた。 十一月、立節將軍の周権が檄を受けたといつわり、自ら平西將軍と称し、皇后羊氏を復位させた。洛陽令の何喬が周權を攻めて殺し、また皇后を廃した。 十二月、呂朗らは東に滎陽に駐屯し、成都王穎は進んで洛陽に拠り、張方と劉弘らは防ぐことができなかった。范陽王虓は官渡から渡河し、滎陽を抜き、石超を斬り、許昌を襲い、劉喬を蕭で破って、劉喬は南陽に逃げた。右將軍の陳敏が叛乱し,自ら楚公と号し、詔を受けたと詐称して、沔漢から惠帝を奉じて迎えようとし、揚州刺史の劉機、丹楊太守の王曠を敗走させ、遣弟の陳恢に南に江州を略奪させ、刺史の應邈は弋陽に逃げた。 |
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光煕元年(306)春正月戊子朔、日蝕。惠帝は長安にいた。河間王顒は劉喬が破れたと聞き、とても懼れて、張方を殺し、東海王越に和平を申し入れた。東海王越は聞く耳持たなかった。宋冑らが成都王穎の部将、樓褒を破り、洛陽に逼り、成都王穎は長安に逃げた。 甲子?、東海王越は部将の 弘、宋冑、司馬纂らに惠帝を迎えさせた。三月、東萊 令の劉柏根が叛乱を起こし、 公と自称して、臨淄を襲い、高密王簡は聊城に逃げた。王浚は部将に劉柏根を討たせ、これを斬り捨てた。夏四月己巳、東海王越は溫に駐屯した。河間王顒は弘農太守の彭隨、北地太守の刁默に 弘らを湖で防がせた。五月、流星が西南に流れた。范陽國で地が燃え、そこで炊事ができるほどであった。 壬辰、 弘らは刁默と戦い、刁默は大敗して、河間王顒と誰かは南山に逃げて、宛に行った。 弘らがつれてきた鮮卑は長安を掠奪し、二万人あまりの人が殺された。この日、日光は四散し、血のように赤かった。甲午にまた同じようになった。己亥、 弘らは惠帝を奉じて洛陽に帰還し、惠帝を牛車に乗せ、行宮藉草,公卿跋渉。戊申、驃騎將軍の范陽王虓が司隸校尉の邢喬を殺した。己酉、太廟の金匱と策文がそれぞれ四つ盗まれた。六月丙辰朔、長安から到着し、旧殿に昇ると、悲しくなって泣けた。太廟に謁した。皇后羊氏を復位させた。辛未、大赦し、改元した。 秋七月乙酉朔、日蝕があった。太廟吏の賈苞が太廟の霊衣と剣を盗んで誅殺された。 八月、太傅の東海王越を尚書とし、驃騎將軍の范陽王虓を司空とした。 九月、頓丘太守の馮嵩が成都王穎を捕らえ、鄴に送ってきた。東嬴公騰の爵位を東燕王とし、平昌公模を南陽王とした。 冬十月、司空の范陽王虓が死んだ。范陽王虓の長史の劉輿が成都王穎を殺した。 十一月庚午、惠帝が司馬越に弑され、顯陽殿で亡くなった。時に四十八歳、太陽陵に葬られた。 惠帝が太子となったとき、朝廷ではみな任に堪えないことを知っていて、武帝もまたそう考えていた。そこで東宮の官属を召して、尚書の事務を太子に処理させようとしたが、惠帝はできなかった。賈妃は側近に代わりに答えさせようとして、故事を多く用いた。給事の張泓が「太子は馬鹿なのは、陛下も御存知です。答案を作るのに、書物から引用してはいけません」賈妃はそのとおりにした。張泓が答案を作って、惠帝にそれを書き写させた。武帝はこれを見てよろこび、太子は安泰となった。及居大位,政出羣下,綱紀大壞,貨賂公行,勢位之家,以貴陵物,忠賢路絶,讒邪得志,更相薦舉,天下謂之互市焉。高平の王沈は釋時論を作り、南陽の魯褒は錢神論を作り、廬江の杜嵩は任子春秋を作ったのは、みな疾時の作である。惠帝はかつて華林園でのこと、かえるの声を聞き、左右の者に言った。「鳴いているのは公務のためか、自分のためか?」ある人が答えた。「官地にある者は公務で、私地にいる者は自分のためです」天下が乱れるに及んで、民に餓死するものがでると、惠帝は「どうして肉粥を食べぬのか?」と言った。その蒙蔽はみなこんなかんじだった。のちに を食べて中毒で死んだ。司馬越が鴆毒を盛ったという。
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懷帝紀 懷帝、諱は熾、 永興元年、 光煕元年十一月庚午、 十二月壬午朔、 |
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永嘉元年春正月壬子朔、 二月辛巳、 三月己未、 夏五月、 秋七月、 八月己卯朔、 九月戊申、 冬十一月戊申朔、 十二月戊寅、 |
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永嘉二年正月丙午朔、 二月辛卯、 三月、 夏四月丁亥、 五月甲子、 秋七月甲辰、 八月丁亥、 九月、 冬十月甲戌、 十一月乙巳、 十二月辛未朔、 |
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三年春正月甲午?、 三月戊申、 夏四月、 秋七月戊辰、 九月丙寅、 冬十一月、 十二月乙亥、 |
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永嘉四年春正月乙丑朔、 二月、 三月、 夏四月、 五月、 六月、 秋七月、 九月、 冬十月辛卯、 十一月甲戌、 十二月、 |
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永嘉五年春正月、 二月、 三月戊午、 四月戊子、 五月、 東海王越 六月庚寅、 秋七月、 八月、 九月癸亥、 冬十月、 十一月、 |
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永嘉六年春正月、 二月壬子、 夏四月丙寅、 秋七月、 八月庚戌、 九月己卯、 冬十月、 十一月甲午、 是歳 |
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永嘉七年春正月、 丁未、 |